何が見つかったのか
Anthropicによれば、同社の非公開モデル「Claude Mythos Preview」が2つの暗号方式に数学的な弱点を見つけました。1つは耐量子署名方式HAWK、もう1つはAES-128の縮約版です。
HAWKは、米国立標準技術研究所(NIST)が進める追加署名方式の標準化コンペで第3ラウンドに残っている候補の1つです。将来の量子コンピュータでも破られないことを狙った方式で、人間の専門家が2年以上にわたって検証してきました。Mythosは、その安全性の土台となる格子構造に、これまで見落とされていた対称性があることを突き止め、既知の攻撃を改良したとされます。所要時間は60時間でした。
もう一方のAESは、デジタルデータの対称鍵暗号として世界で最も広く使われている標準です。ただし今回の攻撃対象は本来10ラウンドの処理を7ラウンドに減らした改変版であり、Anthropicも「現在稼働中のシステムには影響しない」と明言しています。この過程でMythosは「Möbius Bridge」と名付けられた新しいフィンガープリンティング手法を編み出し、攻撃者が立てる必要のある推測を1つ減らすことで、既知の最良攻撃を200〜800倍改善したと説明されています。
「暗号が破られた」ニュースではない
重要なのは、これが実用システムの危殆化ではないという点です。HAWKは標準化前の候補にすぎず、AES攻撃はラウンド数を削った研究用の的です。縮約版への攻撃は暗号研究では安全余裕を測るための日常的な手法であり、7ラウンドで破れることがフル10ラウンドの危険を意味するわけではありません。
では何が新しいのか。成果そのものより、成果の出し方です。HAWK側の人間研究者は理論計算機科学の出身で格子暗号の専門家ではなく、役割はほぼプロジェクト管理に限られていたといいます。AES側では、研究者が仮説生成と実験検証を回す足場(スキャフォールド)を組んだ上で、モデルがほぼ独力で攻撃にたどり着きました。3日間で数億トークンを生成する間、追加された実質的な指示はわずか3回、主に脱線を戻すためのものだったとされています。
モデルは最初「無理だ」と断った
興味深いのは失敗の記録です。AESの問題に対してMythosは当初、これ以上の改善は不可能だとして取り組みを拒み、「AES-128 r5/r6は本当に難しい」と述べています。研究者が「本当に新規性のあるアイデア」を探すよう促して初めて、創造的な方向を模索し始めました。HAWKでも、マルチエージェント構成の一方のエージェントが着想を実行不可能と却下しかけ、別のエージェントがそれを完全に活用する道筋を見つけたと報告されています。
つまり、成果を左右したのはモデルの生の能力だけでなく、諦めを解除するプロンプトと、複数エージェントで反証を突き合わせる設計でした。これは暗号解読に限らず、難問にAIを当てる際の再現可能な教訓です。
コストと検証の非対称性
見逃せないのが数字です。HAWK・AESそれぞれ約10万ドル、AES側は約10億トークン。一方で、暗号の専門家ではない人間の研究者が結果の検証に数百時間を費やしています。生成は速く安く、検証は遅く高い——この非対称は、AI研究支援の現実的なボトルネックがどこに移るかを示しています。
Anthropicは事前に米政府や業界パートナーへ結果を共有し、HAWKの弱点は方式の設計者と調整の上で開示しました。あわせて、ETHチューリッヒ、テルアビブ大学、ハイファ大学の研究者らと、言語モデルの暗号解読能力を体系的に測るベンチマーク「CryptanalysisBench」を開発しています。Mythos Preview自体は一般公開されていません。
💼 事業会社視点:これは自社にどう効くか
経営が読むべきは「AESが破られた」ではなく、専門家不在でも一定水準の研究成果が10万ドルで買える時代に入ったという一点です。HAWK側の人間はほぼプロジェクト管理役でした。これは自社に博士級人材がいないことが、難問に挑まない理由にならなくなることを意味します。
受託開発・SIerにとっては、顧客から「うちのAESは大丈夫か」という問い合わせが必ず来ます。今回の対象が7/10ラウンドの縮約版であり実運用に影響しないと即答できる整理を、先に用意しておくべきです。金融・決済・医療など長期保存データを扱う事業では、NISTの耐量子標準化がまだ動いている最中だという事実こそが実務的な示唆です。特定候補に前のめりで実装せず、暗号方式を差し替え可能なアーキテクチャ(crypto-agility)にしておく判断が効いてきます。
SaaS・ECでは、自前実装の暗号やライブラリ改変が残っていないかの棚卸しが先決です。標準品を素直に使っている限り、今回のニュースで動く必要はありません。
そしてR&Dを持つ製造業・素材系は、「モデルが不可能と断った後に促して成果が出た」点を重く見るべきです。AI活用の成否は、モデル選定よりも検証の足場と、諦めさせない運用設計に移っています。検証に数百時間かかった事実も踏まえ、生成側ではなく検証側に人を張る体制へ配分を変える議論を始める時期です。