何が起きたか

Mastercardは、AIエージェントが同社ネットワーク上で決済できるようにするため、リスクフレームワークそのものを作り替えています。Ulrich氏の説明はシンプルです。「ボットの取引を止めるために積み上げてきたルールを、今度はボットが取引できるように変える必要がある」。この防御ルールは、20年以上にわたってAIを取引審査に適用してきた蓄積そのものです。

規模感は把握しておく価値があります。同社は昨年1,750億件の取引をスコアリングし、1件ごとに100ミリ秒未満で0〜999の不正スコアを算出して発行銀行へ渡しています。不正検知システムSafety Netは累計700億件超の不正取引を止めてきました。さらに生成AIによってデータと文脈を追加投入した結果、高リスク帯で従来比300〜400%多くの不正取引を検知できるようになり、しかも消費者側の摩擦や誤検知を増やさずに実現したとされています。同社は自社の取引データで独自のTransformerモデルも構築中です。

なぜ重要か

従来の決済は「買え」という単一の原子的な取引でした。エージェント決済はそこから”権限の委任”へ移行します。Ulrich氏の言葉を借りれば、AIのスケールを決めるのはエージェントの能力ではなく「どこまで任せられるかという信頼」です。信頼を成立させるには、意図・振る舞い・制約の3点を機械可読な形で特定できなければなりません。

Mastercardが用意した5層はこの要請への回答です。①アイデンティティ(消費者だけでなくエージェント自体を検証・登録するKYA=Know Your Agent)、②検証可能な意図、③コントロール、④実行、⑤インテリジェンス。

②の検証可能な意図は、元の指示を改ざん不能な暗号学的記録として取引に随伴させる仕組みです。Ulrich氏は「サイズ12の黒いNikeを頼んだのに、指示になかった返品不可のファイナルセール品が届いた」という例を挙げました。事後に誰の責任かを客観的に判定できることが、委任の前提になるという発想です。③のコントロールは、どの加盟店で・いくらまで・どんな条件で買えるかを定義します。④の実行はMastercard Agent Payが担い、トークン化・認証・加盟店受け入れの枠組みを内包した形でMicrosoft、OpenAI、Googleらと立ち上がっています。⑤はリスクルールに加え、同意ベースで洞察へのアクセスを与えるinsight token、Recorded Futureによる脅威アクターの監視まで含みます。

本命はB2B調達

Ulrich氏が「消費者購買より大きい機会」と名指ししたのはB2B調達です。エージェントが在庫を管理し、自動で補充を発注し、予算と承認済みサプライヤーを理解して動く製造業の例が挙げられました。これが企業をまたいで動くには、調達エージェント・サプライヤーエージェント・銀行エージェントが自律的に会話できる、標準化されたアイデンティティと意図の規格が要ります。

ただし現実は追いついていません。VentureBeatが2026年6月に実施したPulse調査では、107社の有効回答のうち、すべてのエージェントに固有のスコープ付き管理IDを付与している企業は32%、エージェントID製品を検討対象に入れている企業に至っては12%でした。Ulrich氏はアイデンティティ領域を「最も成長の速いエコシステムの一つ」と表現し、Mastercardは6〜7年にわたり自社開発と買収の両輪で広げてきたと述べています。

内製の教訓

同社は4,000人のコンサルタント向けに、ディープリサーチ、text to SQL、Excel、PowerPointを扱うエージェント群を14か月前に構築しました。Ulrich氏は「今なら根本的に違う作り方をする」と語り、当時アーキテクチャをこれほど早く考え直すとは想定していなかったと認めています。

そこから得た教訓は3つ。ガードレールとセキュリティは最初から組み込むこと、最初からスケール前提で作ること、そして可観測性と説明責任は知能と同じくらい重要であること。「作り終えたものを拡張しながら後付けでガードレールを入れようとするなら、失敗する運命にある」。同社はこの反省から”エージェント・ファクトリー”と呼ぶ基盤——コンプライアンス・可観測性・ガードレールを個別に接ぎ木するのではなくOS側に持たせた仕組み——を構築し、手作業で追っていたモデルドリフトの監視も自動化しました。

セキュリティでは、AnthropicのMythosを使うProject Glasswingの初期段階に参加し、OpenAIのGPT-5.5-Cyberとも取り組んでいます。検出困難だった脆弱性を見つける強力なモデルだと評価しつつ、Ulrich氏の位置づけは「新しい動き方ではなく新しい道具」。CSOが率いる専任チームが重要資産を優先度付けし、定期的にモデルへかけ、高・中・低の深刻度で管理し、同じ技術でパッチも当てています。

💼 事業会社視点:これは自社にどう効くか

日本企業にとっての含意は「エージェントを賢くする話」ではなく「エージェントに身元と権限を持たせる話」です。ECでは、Agent Payの実行層がMicrosoft・OpenAI・Googleと立ち上がった以上、カート・決済フローがエージェント経由の来訪を弾かない設計になっているかが早晩問われます。ボット対策のWAFやレー��制限が、そのまま”正規の代理購買”を落とす側に回るリスクです。加盟店側の意思決定者は、決済代行・カート事業者に対して「エージェント発注をどう受け入れるか」のロードマップを今期中に確認すべき論点になります。

より大きいのはB2B調達側です。Ulrich氏が本命と位置づけたのは、在庫を見て自動補充し、予算と承認済みサプライヤーを理解して動くエージェント。日本の製造業・卸の購買システムは承認ワークフローが人間の稟議前提で組まれており、ここに委任権限と検証可能な意図の記録を差し込めるかが分かれ目になります。

SaaS・受託開発の各社は、VentureBeatのPulse調査でエージェント固有IDを全件付与している企業が32%、エージェントID製品を検討対象に入れている企業が12%という数字を、市場の空白として読むべきです。逆に自社が発注側なら、監査時に「どのエージェントが何の指示で実行したか」を出せない実装は負債になります。Ulrich氏の「後付けのガードレールは失敗する運命」という警告は、PoCから本番へ移す途中の日本企業にこそ効きます。14か月前の設計を作り直すことになったMastercardの実例は、今の内製エージェントを”作り直す前提”で見積もる根拠になります。

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