何が起きたか
ティム・クック氏がApple CEOを退任し、エグゼクティブ・チェアマン(会長)に移行します。移行の発表でAppleが前面に出した数字が、2015年比60%の炭素排出削減でした。Appleは2020年に「今の10年の終わりまでに75%削減」という目標を設定しており、その進捗を実績として示した形です。
ただし最新の環境報告書によれば、2025年の総二酸化炭素排出量は1530万トン。The Vergeはこれをガス火力発電所およそ40基の年間排出に相当すると表現しています。しかも2021年以降は毎年縮小してきた排出量が、直近1年は横ばいに転じました。Appleのプレスリリースはこれを「事業が大きく成長した年でも2024年から一定に保った」と説明しています。
なぜ重要か
横ばいという1点だけを見れば地味な数字ですが、比較対象を置くと意味が変わります。GoogleとMicrosoftの温室効果ガス排出量は、生成AIがデータセンターとチップ製造の需要を押し上げたことで大きく膨らみました。同じAIブームのなかでAppleだけが横ばいを維持している、という構図です。
Stand.earthのRachel Kitchin氏は「クック氏が気候公約を守った企業という遺産を望むなら、辞めるタイミングとしては正しかったのかもしれない。暗い背景のなかで、今の絵は比較的明るい」と述べ、同時に「今後の選択次第では、そのままとは限らない」と付け加えています。つまり、クックの実績評価は「AI以前の10年で稼いだ貯金」であり、AI時代の答案はまだ提出されていません。
供給網では先行、透明性では後退
Appleの強みはサプライチェーン側にあります。2023年のStand.earthの報告書は、Apple・Dell・Google・HP・Microsoft・Nvidiaを評価し、サプライヤーに100%再生可能電力目標を課していたのはAppleだけだと指摘しました。2025年にはグリーンピース東アジアからB+評価を得ています。同団体のAvex Li氏は「サプライチェーンが同じく東アジアに集中しながら、明確な再エネ目標も具体的な支援もないNvidiaのような企業とは対照的だ」と評します。
一方で綻びも指摘されています。2023年、公衆環境研究センター(IPE)は、Appleがサプライヤーに温室効果ガス排出量の公開開示を求めるのをやめたと指摘し、透明性の欠如がカーボンニュートラルの主張の検証を困難にしていると批判しました。Li氏も、Appleがサプライヤーの総電力消費量も再エネ比率も開示していない点を問題視し、チップ供給網が集中し再エネへのアクセスが限られる台湾・韓国での新規再エネ設備への直接投資を求めています。
「カーボンニュートラル」表示は撤退フェーズへ
2023年、AppleはApple Watch Series 9、Apple Watch Ultra 2、Apple Watch SEの「特定のケースとバンドの組み合わせ」を初のカーボンニュートラル製品として投入しました。しかしこの訴求は法廷と規制の両面で削られています。昨年、購入者を代表するクラスアクション訴訟が「虚偽かつ誤解を招くカーボンニュートラルの主張」だと主張して提起され、カリフォルニアの連邦判事は今年これを棄却しました。訴訟には勝ったものの、EUが製品説明にこの用語を使うことを禁じる方向に動いたため、Appleはカーボンニュートラルの広告表示自体を取り下げています。
姿勢の一貫性にも論点があります。Appleはアマゾン、GMなど多数の大企業とともに、温室効果ガス報告のより厳格な国際ガイドラインづくりに反対してきました。クック氏自身は2025年、他のCEOらとともにドナルド・トランプ大統領の就任式に参加し、就任委員会に100万ドルを寄付、同年にはトランプ氏に米国製造業を記念したとみられる金とガラスの像を贈っています。トランプ政権2期目は、新規発電所とAIデータセンターの開発を加速させるため環境規制の巻き戻しを優先しています。Appleの広報担当Sean Redding氏はThe Vergeに対し、最新の環境進捗報告書とクック氏の移行に関する既存の声明を示しました。
経済合理性という条件
クック氏の環境戦略を貫いていたのは「採算が合うこと」でした。2023年にCBSニュースへ語った言葉が象徴的です。「採算が合うところを見たい。他社にも真似してほしいからだ。経済的に良くない判断は、誰も真似しないと分かっている」。クリーンエネルギーへの移行は成長を犠牲にしない、という前提です。
この前提はAI時代に試されます。Li氏は「AIはAppleの気候公約にとって決定的な試験になる」と述べ、クック氏の環境的遺産を守るには「AIの成長を既存の気候公約の枠内に収められることを、絶対量の排出削減、追加の再エネ投資、より長く使える製品によって示す必要がある」と指摘しています。
💼 事業会社視点:これは自社にどう効くか
日本企業の経営層が読むべき論点は3つあります。第一に「開示の粒度が信頼の分かれ目になる」こと。Appleは訴訟には勝ちましたが、EUの規制でカーボンニュートラル表示自体を取り下げ、サプライヤーの電力消費・再エネ比���を開示していない点を批判され続けています。日本のメーカーや商社が同じ訴求を海外市場で使うなら、第三者が検証できる粒度でないと訴求ごと失う。マーケの言葉遣いではなく開示設計の問題です。
第二に、Appleのサプライヤー向け100%再エネ要求は、台湾・韓国だけでなく日本の部材・装置メーカーにも降りてきます。取引継続の条件が「排出量を出せるか」になる以上、CO2算定は経理部門の片手間ではなく、受注要件として社内に持つべき機能です。
第三に、SaaS・EC・受託開発のようにAI利用が急増する事業では、GoogleやMicrosoftの排出膨張が示すとおり、AI採用がそのままScope3の増加として跳ね返ります。生成AI導入のROI試算に電力・クラウド排出の欄がなければ、数年後に自社の削減目標と正面衝突します。クック氏の「採算が合うこと」という条件は、AI投資の稟議書に今すぐ書き足すべき一行です。