何が起きたか
元OpenAI研究者のAndrew Ho氏が、在籍わずか8カ月で同社を離れました。理由は、大規模言語モデル(LLM)の汎化能力に対する不信です。潤沢な投資が入っているプログラミング領域ですら性能が安定しない、というのがHo氏の見立てです。
根本原因として同氏が挙げるのは、計算資源の不足ではなく学習データの不在です。経済的に価値のあるスキルの大半は、既存のデータセットにほとんど含まれていない。だからスケール(モデルと計算量の拡大)だけでは解決せず、今後数年でAI各社は1000億ドル超を「狙い撃ちのデータ収集」に費やすことになる、と予測します。
Ho氏はフロンティアラボの評価額にも懐疑的です。OpenAIやAnthropicは、QwenやKimiのような安価な競合に先行し続けるため新モデルへの支出を膨らませ続けねばならず、慢性的に赤字である、と。同氏の新事業の最初の対象は、バイオインフォマティクスの複雑な解析用データセットと、研究者が実験の写真をAIに送って評価させるような日常的なラボ作業のデータセットの2領域。バイオインフォマティクスでは現行のGPT-5.6 Solでも成功率は約30%程度だといいます。化学、材料科学、ヘルスケア、さらに広い知識労働への展開が続く計画です。
なぜ重要か
この主張が効いてくるのは、「AIは放っておけば来年もっと賢くなる」という前提で投資計画を立てている企業です。Ho氏の見立てが正しければ、能力向上は自動的には来ません。データが集まった領域にだけ、順番に来ます。
ケンブリッジの研究者Adam Hunt氏も同じ方向の懐疑を示し、自身のLLM観が楽観から悲観へ移ったと語ります。同氏によれば、最新モデルは汎用的になっているのではなく専門化している。プログラミングや複雑な数学の能力は伸び続ける一方で、言語の質や単純な論理は停滞、あるいは悪化しているという指摘です。
理由は報酬設計にあります。コードのように明確な報酬信号と完全な学習データが存在する領域では強化学習がよく効く。しかし、それ以外の領域にはそのデータがない。初期のLLMが見せた「スケールと推論で汎化しているように見える」性質は、広範なテキストコーパスで学習した副作用であって、真の一般的理解の証拠ではなかった——これがHunt氏の解釈です。ただし同氏は自身の確信度を約40%とし、専門特化したモデル群を組み合わせて汎用知能に近いものが作れるなら間違いだと認めるとしています。
Ho氏の発言は、この「データがない」の中身を言い当てています。曰く、ほとんどの仕事は文脈依存性が高く、採点可能な環境に落とし込みにくい。人間が取った「正解ルート」を観察できたとしても、選ばれなかった反実仮想のルートが良い結果を生んだのか悪い結果を生んだのかを知るのは難しい、と。
構造的な説明——「LLMは跳べない」
Google DeepMindのTom Zahavy氏は、「LLMs can’t jump」と題したポジションペーパーで別角度の説明を与えています。言語モデルは演繹と帰納は得意だが、創造的なアブダクション——言語的な前例が存在しない原因を発明する能力——で失敗する、というものです。処方箋として同氏が挙げるのは、反実仮想の実験を可能にする行動制御可能な世界モデル。単体では限界があるにせよ、LLMはそうしたシステムの中で引き続き重要な役割を担うとしています。
点をつなぐと、3人が別々の言葉で同じ地形を描いていることが分かります。Ho氏は「データがない」、Hunt氏は「報酬信号がない」、Zahavy氏は「前例がない」。いずれも、検証可能性が用意された領域では急速に伸び、用意できない領域では伸びない、という同じ非対称性の別表現です。冒頭の対比図——全タスクが緩やかに広く底上げされる道と、少数の能力だけが突出して基礎能力は停滞・縮小する極端な専門化の道——のうち、彼らは後者を見ていることになります。
もっとも、これは決着した論争ではありません。言語モデルが学習データの再生産と再結合を超える能力を獲得しうるか、とりわけ結果を自動検証できない領域でそれが可能かについて、科学者の見解は一致していません。
💼 事業会社視点:これは自社にどう効くか
日本企業の実務にとって重要なのは、「AIの能力は領域ごとに時間差で来る」という前提への切り替えです。コード生成やドキュメント処理のように検証しやすい業務は今後も伸びますが、営業の勘所、与信判断、保守運用の切り分け、製造現場の判断——採点環境に落とせない業務は、待っていても来ません。「来年のモデルが解決する」を根拠にした保留は、この見立てでは無期限の保留になります。
打ち手は、自社の反実仮想データを溜め始めることです。Ho氏が指摘する難所は「正解ルートは観察できるが、選ばなかった選択肢の良し悪しが分からない」点。逆に言えば、失注案件、却下された見積り、選ばれなかった設計案、差し戻された稟議——多くの日本企業が捨てているこのログこそ、外部から買えない資産になります。今から意思決定の理由と結果をセットで記録する運用に変えるだけで、数年後の資産価��が変わります。
受託開発・SIerには追い風と逆風が同時に来ます。コード生成の高度化は単価を圧迫しますが、顧客業務を採点可能な形に設計し直す仕事——評価データの設計と収集——は新しい収益源です。SaaS事業者は、自社に溜まる操作ログが「教師データとして売れる/使える形式か」を今期中に棚卸しすべきです。ECなら、CVだけでなく「表示したが買われなかった」側の記録が効いてきます。1000億ドルが動く先はデータであり、その一部は自社の中にあります。