何が起きたか

Vijay Pande氏は元スタンフォード大学の化学教授で、家庭用PCを束ねて疾病研究用のスーパーコンピュータに変えた分散コンピューティング「Folding@home」の立ち上げで知られます。約12年前、創業から5年間はヘルスケアとライフサイエンスを意図的に避けていたa16zが同領域に参入を決め、Marc Andreessen氏とBen Horowitz氏はその立ち上げをPande氏に託しました。以来10年余りで、同部門は約40億ドルを運用する規模に育ちます。

そのPande氏が昨年6月にa16zを離れ、Zach Werner氏とVZVC(VはVijay、ZはZach)を設立しました。特徴は規模を追わないことです。「年30件ではなく、おそらく5件。多くはない、非常に集中した投資」と本人は語ります。投資サイドはPande氏とWerner氏の2人のみ。当初はアソシエイトの採用を予定していたものの、「自分たちで作り上げたエージェントがあるので、必要なくなった」と述べています。

なぜ重要か

ここには2つの別々の話が重なっています。ひとつは「AIがバイオを変える」という投資テーマ、もうひとつは「AIが投資会社そのものの人員構成を変えた」という運営の話です。後者のほうが、実は多くの読者にとって身近です。VCのアソシエイトが担ってきた仕事——ソーシング、一次スクリーニング、資料整理、デューデリの下準備——は、まさに現在のAIエージェントが得意とする領域です。約40億ドルを動かしてきた人物が「採用予定を撤回した」と明言した点は、ジュニア職の定義が変わりつつあることの、かなり具体的な一例と言えます。

集中投資という設計

投資件数を絞る判断は、AIによる省力化と一見矛盾します。効率化したなら件数を増やせるはずだからです。Pande氏の言い方は逆で、「一般的なファンドで1社追加するのはFacebookの友達を1人増やすようなもの。Zachと私にとっては、もう1人子どもを持ちたいと考えるのに近い」。省いたのは事務であって、関与の深さではないという整理です。ハンズオンの度合いを売りにしているため、「基本的にホットなラウンドを競り合わない。人々が我々のために席を空けてくれる」とも語っています。インスピレーションとして挙げるのは、SpaceX案件で知られ20年この仕事を続けるValorのAntonio Gracias氏と、集中ポートフォリオで知られるThrive。加えて「a16zは自分のDNAに入っている」と付け加えています。

「発見の科学」から「エンジニアリング」へ

投資テーマの側でPande氏が置く前提は、生物学が「発見の科学」から設計可能な工学へ移りつつある、というものです。AIと機械学習は創薬標的の特定、薬そのものの設計、そして最もコストのかかる臨床試験の支援に効く。臨床試験は1本で数億ドル規模、最初の試験から第3相の終了まで無事に到達する確率は20%、10のうち8は失敗します。

Pande氏の診断は「生物学者のミス」ではなく設計の前提にあります。薬はマウスなどの動物モデルの上で設計されるが、動物モデルはヒトの予測にあまり役立たない。「AIモデルは完璧にはならないが、どんな動物モデルよりずっと良くなる。そのバーを超えたときが本当に面白い」。過去10年でAI for biology(どう治療するか)とAI for chemistry(特定のタンパク質に対してどう薬を設計するか)の双方が進んだ、という認識がその裏側にあります。

次はプレシジョンメディシン、ただし遺伝子ではなく

次の段階としてPande氏が挙げるのは、「その薬がその個人に合っているか」を判定するプレシジョンメディシンです。現状、医師は当たりをつけて薬を順に試すしかなく、血液検査の数値も「その人にとっての正常値」ではなく集団平均と比較されている。ここで踏み込んでいるのは、プレシジョンメディシンの土台をゲノムから移す点です。「ゲノムは家の初日の設計図のようなもので、今のあなたの家は建てられた瞬間とはかなり違う」。現在の疾病状態を理解するにはプロテオミクスなど別の計測のほうが妥当であり、ロボットによる計測の自動化がAIと自然に接続する、という筋書きです。

データの壁と、オープンソースへの期待

ただしこの領域には構造的な制約があります。生物学データはインターネットから収集できず、あるモデルから別のモデルへ蒸留することもできない。結果として、ほぼすべての企業が自社だけの閉じたデータセットを構築します。Pande氏はこれを、医師が専門ごとにサイロで動く状況になぞらえます。腫瘍内科と内分泌内科にまたがる癌の症例で、2人の専門医がうまく同期しない——「AIは原理的にはすべての分野の専門家になりうる。最高の医師たちのチームが一斉に議論している状態に等しい」。

その突破口として挙げるのが、生物学情報の「アトラス」を作る潮流であり、技術的にはこれが基盤モデルにあたります。���ープンソースのLLMが企業製に対して果たしたのと同じ役割を、オープンソースの生物学基盤モデルが果たすと見ています。

誇張されているのはどこか

過熱について問われたPande氏の答えは明快です。AIは人間が見つけられない知見を見つけられる。しかし「AIがすべてを治す」という主張への留保は、AIへの疑いではなくデータへの疑いだ、と。「LLMが機能するのは学習するデータが大量にあるから。データがそもそも存在しないなら、AIが魔法のように解決することはない」。10年以上前、医療やバイオでAIや機械学習の話をしたときに受けた抵抗はほぼ消えたと言いますが、期待の中身は当時より厳しく仕分けされているわけです。

もう一点、本人が「理解するのに時間がかかった」と認めるのがGTMです。「どれだけクールな技術も、結局はいつもgo-to-marketに戻ってくる」。技術面と同等かそれ以上に難しいのがGTMであり、サイエンスやプロダクト志向の創業者こそ、その創造性をGTMに向けるべきだと助言しています。

誰と組むか

VZVCの注力領域は2つ、ヘルスケアデリバリーのAI(a16z時代にも幅広く手がけた領域)と臨床試験のAIです。Pande氏はスタンフォードの自身の研究室から生まれたGenesis Therapeutics、元同僚Daphne Koller氏が立ち上げた創薬企業Insitroに関与し、20年来知る創業者との会社をインキュベートしているとも述べています。創業者に求めるのは高い誠実性——言ったことを実行すること。5年、10年以上、理想的には次の会社まで続く関係を前提にしており、「単に勝って他人を打ち負かすのではなく、どうすれば一緒に勝てるかを考える人」を選ぶと語っています。

💼 事業会社視点:これは自社にどう効くか

注目すべきは「アソシエイトを採用しなくて済んだ」という一言です。約40億ドルを運用してきた人物が、ジュニア職の採用計画を自作エージェントで撤回した。日本企業の経営陣が読み替えるべきは、コンサル・受託開発・M&Aアドバイザリー・調査会社など「若手の工数を束ねて売る」ビジネスの単価構造です。一次調査、資料整形、候補企業のロングリスト化は、すでに外部から代替可能だと顧客側が学習し始めます。人月見積もりの前提を今期中に棚卸しすべきです。

一方で、VZVCが件数を増やさず5件に絞った点も同じくらい重要です。省いたのは事務であって関与の深さではない。SaaSや受託開発で「AIで効率化したので受注を増やす」と考えるのは、この事例の読み違いです。空いた工数を顧客への深い関与に再投資したほうが、価格を守れます。

製薬・CRO・医療系事業に関わる立場では、Pande氏の「データがなければAIは解決しない」という留保が実務的な指針になります。生物学データはスクレイピングも蒸留もできず、各社が自社データを囲い込む。つまり日本企業にとっての勝ち筋は、モデル開発競争ではなく、他社が持てない臨床・計測データの取得経路を押さえることです。とくにプロテオミクスやロボット計測の自動化は、装置・受託分析を持つ日本企業が食い込みやすい層です。

関連リンク