何が起きているか

発端は2025年夏の訴訟です。Anthropicが数百万冊の紙の本を裁断してスキャンし、AIモデルの学習に使っていたことが明らかになり、その作業が「Project Panama」というコードネームで公表を避けて進められていたことも判明しました。同社が希少書を破壊したという事実は示されておらず、同社もこれを否定しています。

その後、The Telegraphが「シリコンバレーが数百万冊の希少書を破壊し、原本を裁断している」と報じ、404 Mediaは書誌データベース企業ISBNdbが「AI企業向けに書籍の一括調達を支援できる」と宣伝していたと伝えました。The Atlanticによれば、この2本の報道でSNSは炎上状態になり、ISBNdb自身も顧客に「見え方が悪い」と警告したと報じられています。

現場の反応はより具体的です。アイルランドの書店Kennysは、無名タイトル5,000冊という「常軌を逸した(bananas)」注文を受けたとThe Irish Timesに明かしました。決め手は価格交渉が一切なかったこと。書店の世界では値切らない大口購入者はAI関与の明白な赤信号になっています。Tomás Kenny氏は「我々の業界を震え上がらせている」と述べ、著作権者の権利と入手困難な本への読者のアクセスを守るため、AI学習向けと見られる注文は今後断る方針です。短期的な売上増を歓迎する声もある一方、「自らの死刑執行令状に署名することになるかもしれない」という懸念が書店側から出ています。

なぜ裁断なのか——コスト構造の問題

本を大量にデジタル化する最も安く速い方法が、背表紙を切り落としてバラバラのページを一気にスキャンすることだからです。Googleは2009年に非破壊のスキャン技術を特許化しており、AI企業も利用しうる選択肢はあります。しかし研究では、ページの湾曲が文字を歪ませたり、ページが飛ばされたりする問題が指摘されています。Wiredは、作業者が速く動きすぎるとページに手が写り込むといった不具合を報じました。数百万タイトルを処理したいAI企業にとって、非破壊スキャンのコストと速度のトレードオフは割に合わない可能性が高く、Googleの手法が希少書に最適とも限りません。

「手でめくる」という対極

Internet Archiveは真逆の立場を取ります。「本の背を切り落として破壊することは決してしない。一ページずつ、手間のかかるやり方でデジタル化する」——同団体はそう明言しています。真空でページをめくるアーム付きの市販スキャナも試したものの、「もろい本、希少書、その他の特別コレクション、つまり図書館パートナーが我々にデジタル化を頼んでくる類の資料には、うまく機能しなかった」といいます。

2010年から在籍するスキャン担当のEliza Zhang氏は、フットペダルでガラス板を上げて一ページずつめくり、カメラを調整し、可読性を確認し、折り込みページはメモして別途スキャンし直します。付録が失われないようにするためです。ページ飛ばしや画像のブレを検知すると、独自ソフトが作業を止めて撮り直しを促す。十数年で300万ページ超、14,000点の折り込み、18,000点(大半は書籍)を扱い、エラー率は低いと報告されています。「集中力が要る仕事です」とZhang氏。同僚のAndrea Mills氏は「清潔で乾いた人間の手が、ページをめくる最良の方法」と語ります。図書館サービス担当ディレクターのChris Freeland氏はArs Technicaに対し、この作業を記した2021年の投稿が「今も我々のスキャン工程の最良の説明」だと述べました。この工程を撮った動画は、当時のTwitterで150万回再生されています。

業界の分岐点

AI各社の対応は割れています。OpenAIとMicrosoftはHarvardの図書館員と組み、15世紀までさかのぼる約100万冊のパブリックドメイン書籍でモデルを学習させる取り組みを進めています。権利関係の明確な素材を正面から取りに行く動きです。一方、Elon Musk氏はX上で「SpaceXAIチームに、図書館にある希少書は保存し、背を切り落とすのではなく手間のかかる方法でスキャンするよう頼んだ」と投稿し、xAIは希少書を破壊しないと表明しました。ただしRedditやSNSでは、「希少書」以外の本を破壊しないとは言っていない点、そして同社が何を「希少」と定義するのかが不明な点が指摘されています。

重要なのは、これが違法性の話ではないことです。著作権法上、購入した本の複製物を破壊すること自体は認められています。にもかかわらず問題化しているのは、法的に許されることと、供給側が取引に応じるかどうかが別物だからです。Kennysの判断は、法の外側で調達コストが上がり始めたことを意味します。

💼 事業会社視点:これは自社にどう効くか

この件の本質は「合法だが売ってもらえない」という調達リスクの顕在化です。法務チェックだけを通してデータ調達を設計してきた日本企業には、そのまま当てはまります。

第一に、自社データを持つ事業会社は交渉力が上がります。専門出版社、業界団体、士業向けメディア、EC事業者の商品説明・レビュー資産などは、AI企業が正面から買いに来る対象���す。Anthropicが数百万冊を裁断した事実が訴訟で露見した以上、次に問われるのは「どこから買ったか」。ライセンス契約の交渉時に、用途・保存方法・再配布範囲を条件化できる立場にあることを自覚すべきです。

第二に、受託開発やSaaSで社内RAGを構築している企業は、スキャン済みPDFの出所を今から棚卸ししてください。ISBNdbのような仲介業者経由で調達された素材が混ざっていた場合、後から契約解除や差し替えのコストが発生します。Kennysのように供給元が取引を拒否する事例が増えれば、「調達済みだから安心」は成立しません。

第三に、OpenAI・MicrosoftとHarvardの約100万冊パブリックドメイン連携は、経営判断のモデルケースです。権利がクリーンな素材を先に押さえた側が、後で説明責任を問われない。データ調達方針を役員決裁事項に格上げし、取引先に開示できる水準で文書化しておくことが、いま最も費用対効果の高い打ち手です。

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