1980年代から続く物理モデルの壁

保険会社や銀行、エネルギー企業は1980年代から「キャタストロフィ(cat)モデル」と呼ばれる物理ベースの数理モデルで地震・ハリケーン・洪水のリスクを評価してきました。地球を格子状のセルに分割し、重力や摩擦、流体の方程式を解くため、解像度を上げれば対象地域が狭まり、広域を見れば粗くなるというトレードオフを抱えていました。

拡散モデルで「2030年の気候」を合成する

Financial Timesによれば、Swiss Re傘下のFathomは画像生成で知られる拡散モデルを応用し、2030年想定の気候下で数万年分の気象イベントを人工的に生成しています。学習に使ったのは既存の気候シミュレーション約1,000年分。そこから元のシミュレーションをはるかに上回るシナリオを合成し、別の鮮明化モデルで100km四方の初期解像度を10km四方まで引き下げ、降水パターンを捉えられる粒度にしています。Veriskは強風と豪雨を逐次ではなく同時にモデル化することで空間的なばらつきを従来の機械学習より精緻に再現できると主張し、Moody’s RMSは山火事やハリケーン後の衛星画像解析で保険損害額を推定。テールリスク評価で特に威力を発揮しているといいます。

「もっともらしい嘘」と保険ビジネスの矛盾

Fathomの科学責任者Oliver Wing氏は「AIは可能性の枠組みを完全に書き換えた」と評価する一方、「この技術ではとんでもないデタラメをハルシネーションしうる」とも警告します。物理法則を破った「ありそうに見える」災害が生成されるリスクは消えていません。さらに業界関係者は、保険会社は「より多くの引受を可能にするモデル、つまり損失見積もりが小さいモデルを選ぶ傾向にある」と指摘。精度の追求とビジネス拡大という相反する力学が、AI導入の効果を相殺しかねない構図が浮かび上がります。

💼 事業会社視点:これは自社にどう効くか

日本の損保・再保険会社にとってこのニュースは「モデル選定の透明性」が経営課題に格上げされたことを意味します。FathomやVeriskが10km解像度で2030年気候を扱えるなら、これまで「資産価値が低い」として主要モデル会社が無視してきたバングラデシュやブラジルに加え、日本国内の中山間地・離島の水害リスクも再計算可能になります。商社・物流・製造業の役員は、海外拠点やサプライチェーン上の被災シナリオを自社のBCPに織り込み直す好機です。

一方、保険会社の経営層は「損失見積もりが低いモデルを選びがち」というFTの指摘を逆手に取られる立場でもあります。気候開示(TCFD・SSBJ)で投資家が同じAIモデルにアクセスできるようになれば、引受余力の根拠が外部から逆算されかねません。CROは「営業が嫌うモデル」をあえて並走させ、資本バッファの妥当性を社外に説明できる体制を今から作るべきです。SaaS・受託開発側にとっても、ハルシネーションを検証する物理整合性チェックの実装は、金融機関向けに有償化できる現実的な事業機会です。